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天馬行空的言語~ 漫天飛翔的思維~ 
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【わたしの失敗】茶道裏千家前家元・千玄室さん(84)

                   ◇

 2人の姉のあと、茶道裏千家第14代家元淡々斎(たんたんさい)の長男として生まれた。跡取りの誕生に家族は大喜びだったという。父の死去に伴い昭和39年に15代家元を襲名、平成9年には文化勲章を受章し、5年前に長男の千宗室・現家元にあとを譲った。まさに順風満帆…。

 「いやいや。今でこそ健康でありがたいことですが、子供のころは弱々しくてね。で、いわゆるぼんぼん育ちでした。習い事も多くてねえ」と苦笑する。

 「例えば、茂山さん(大蔵流狂言の茂山家)のところで仕舞を、能の金剛さん(金剛流)のところでは謡曲を、書道にも通っていました。2つ下の弟(出版社の淡交社創業者、故納屋嘉治氏)もいたんですが、私だけなんです。弟は何でも一緒にしたがって後をついてくるので困りました。家を継ぐということをちょっぴり自覚し始めたのは、小学校(京都師範付属小、現京都教育大付属小)6年のころ。それもね、大反省した出来事がありました」

                   ◇

 京都では6歳の6月6日に芸事を始めるとよいとする昔ながらの風習がある。千家では5歳で初めて袴(はかま)を付ける「着袴(ちゃっこ)の儀」を行い、6歳で茶道のけいこを始めたそうだ。

 「といっても、まだ子供の遊びのようなもので、父も母もお茶のけいこをしろとはいわないのですよ。ちょうど北野天満宮のお献茶で父の手伝いをしたのですが、うまくできたとほめられまして。多少、調子に乗ったところもあったんでしょう。不思議に思っていたことを父に聞いたんです。『どうして僕にはお茶のけいこをつけてくれないの?』と。ところが父は黙って私の顔をみているだけで…」

 その場にいづらくなり母の元に走った。一部始終を話すと、今度は母が「もう一度いってらっしゃい」という。

 「そこで再度、父の所に行き尋ねました。すると初めて口を開き、目の前にいるのはだれかと聞くわけです。『父上です』と答えると、『うん、そや。けど別の人がいるよ』と。そのときに、あっと思いました。目からウロコが落ちたような気がしたのです。私が(茶道の)けいこを始めるならば父は先生であり、自分からお願いしますといわなければならなかった。甘やかされ、子供心にもおごりがあったのでしょう。あのときほど、父が大きく見えたことはありませんでした」

 家元である父の大きさ、厳しさに触れた最初だった。数日後、父のもとに向かい「けいこを付けてください」と頭を下げた。

 「そのとき初めて父がニコッと笑いました」

 =敬称略

 (文 山上直子)

                   ◇

【プロフィル】千玄室

 せん・げんしつ 大正12年、裏千家14代家元の長男として京都市に生まれる。同志社大学在学中に学徒出陣、戦後復学して昭和21年卒。父の死去に伴い39年、15代家元を継承。平成9年文化勲章受章、平成14年12月に家元を長男の千宗室氏に譲り、号を玄室に。茶道を通じた国際交流に努め14年日本国際連合協会会長に就任。17年から日本・国連親善大使。
  

 ■内証で受験準備、バレて…

 夢と希望にあふれた十代、総じて若者は自身の無限の可能性を信じて疑わないものだ。

 「中学は父の意向で同志社に進みましたが、内心は不服でした。私学は少数派だったし、友人らと同じ学校に行きたかったんです。そんなふうでしたから、大学は自分で決める、東京に行くぞと思っていた。一度は、京都とは違う空気を吸ってみたかったんです」

 負けん気の強い少年は、両親に内証で早稲田と学習院の受験準備を進める。ところが、友人からその企てが母にバレてしまった。

 「『気持ちはわかるけれど、あなたは跡取りです。この家と一緒にいなければいけない。できる限りお父さまの後ろにいて、若い間にこそ大切なことを吸収しなければならないのですよ』とさとされた。帝王学ならぬ、“家元学”とでもいいますか。少しでも早く学ばせておきたいという気持ちがあったのでしょう」

 初釜をはじめ、利休の命日に営まれる利休忌や社寺での献茶式など、茶家の行事は多い。家元というのは、家族や高弟を率いてそうした行事にあたるのが務めだ。自分一人の身ではないということを思い知らされた。

 「結局、同志社に進学するんです。自分にとっては挫折だったが、結果的に、語学をはじめ自由で国際的な教育を受けて広い視野を持つことができた。今となっては両親の先見の明と感謝しています」

 昭和16年4月に同志社大予科に進学。ところがその年の12月、太平洋戦争が始まる。

 キャンパスも日増しに戦時色が強まるなか、昭和18年12月10日、裏千家の兜(かぶと)門から学生服、角帽、たすきがけ姿の学徒が出陣した。

 「父母、恩師、友人たちの盛大な見送りを受けて発(た)ちました。これはもう、二度とここには帰ってこられないなと。一方で、ああ、家元を継がなくてもよくなったんだとも思いました」 =敬称略(文・山上直子)
 

 ■敗戦にうちのめされて

 戦争は人の心に傷を残す。茶道家元の長男に生まれ、不自由なく育った22歳の青年もまた、徳島航空隊特攻で大勢の戦友を得、失った。敗戦、そして復員は人生最大の挫折だった。

 「四国・松山で待機のまま終戦を迎え、茫然(ぼうぜん)自失の状態で帰宅を果たしました。あの世で会おうといった戦友たちに申し訳ない。盛大に送り出してくれた家族や地元の皆さんの前に、おめおめと生き恥をさらすことも申し訳ない。何しろ、死ぬと覚悟して出た兜(かぶと)門にまた戻ってきたのですから」

 無気力な日々のなか、進駐軍が訪れて父から神妙な顔で茶の指導を受けているのを目にする。態度が悪いと父が怒鳴る。「ゲラウェイ(出なさい)!」。困った顔で去る米兵を見て、目が覚めた思いがした。茶の湯という文化は世界に通用する。家元の家に生まれた義務が使命感に変わった瞬間だったかもしれない。

 千利休の子孫、千家の伝統として次期家元たる「若宗匠」の資格を得るため、京都市北区の大徳寺へ参禅する。管長、後藤瑞巌のもとで修行を始めたころのこと。草抜きをしていると、後藤に問いかけられた。

 「何を思って抜いているのかと。いらない草でも、他の草を生かすためにその命を抜かせてもらっている。そのことになぜ気づかないのかと。私は帰ってきてからずっと、なんで死んでしまえへんかったのかとじくじたる思いでいました。その気持ちがすーっと晴れたように思ったんです」

 自分は生きているのではなく、生かされている。戦争から生きて帰ったことを無駄にしてはならない。

 修行を終え、昭和25年に初渡米。日本は占領下でパスポートもなく、渡航許可証を携えての旅だった。翌26年にはサンフランシスコで仏教哲学者、鈴木大拙の講演に続いて、ニューヨークでは理論物理学者、湯川秀樹の説明で、それぞれ点前を披露し好評だった。

 「国や文化が違っても、茶道の和の精神は必ず伝わる」

 それが、信念になった。=敬称略(山上直子)
 

 ■妻の願いかなえられず

 戦後間もない初渡米から約60年。その間、60カ国以上を訪問し、茶道を通じて平和の精神を訴え続けてきた。

 茶室に入る前には武士も刀を預け、みな平等に茶を楽しむのが茶の湯。茶道には、日本人の「和」を尊ぶ気持ちがあるという。カンボジアのアンコールワット遺跡やバチカンでの献茶も記憶に新しい。

 こうした国際的な活動を陰に日向に支えてくれたのが、妻の登三子(とみこ)だった。

 「家内と見合いをしたのは昭和29年5月です。フランス語を勉強したいので、結婚をする気はないと。気が強いなあと思ったのが最初です」

 勉強を続けることを条件に30年に結婚、二男に恵まれた。外国での公式な場では夫婦での参加が多く、明るく語学に堪能、気配りの上手な登三子は何よりの味方でありパートナーだった。平成9年の文化勲章受章を一番喜んでくれたのは、登三子だったという。

 ところが、平成11年に68歳で死去。

 「外国旅行といえば仕事ばかりで、ゆっくり二人で楽しむ機会がなかった。そろそろ家元を譲り、そんな旅行をしようねといっていた矢先でした。その願いをかなえてやれなかったのが何より心残りでなりません」

 3年後の平成14年末、家元を譲り号を玄室に。実は家元の継承とは、先代の死去に伴い行われるのが通例だ。その意味でも画期的だったといえる。

 とはいえ、家元を譲ったのを機に隠居…とはいかなかった。17年に日本・国連親善大使となり、世界の舞台でのニーズはさらに増えた。難民や環境問題など世界の問題も山積している。

 「大使としてこれからもまだまだ行かなくてはならない場所は多い。来年3月で任期が切れるのですが、あともう1期との要望もあって。まあいいでしょう。せっかくいただいた命ある限りと思っています」=敬称略(文・山上直子)=おわり
 
 
  
轉載自:http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/071218/art0712180348000-n1.htm
 

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