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天馬行空的言語~ 漫天飛翔的思維~ 
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【わたしの失敗】元首相・細川護熙さん(69)

 足利将軍から家康まで仕えた細川幽斎を初代に、脈々と続く細川家の18代目で母方の祖父は元首相、近衛文麿。華麗なる家系につながる“殿”が、大学卒業後に選んだ仕事は新聞記者だった。鹿児島支局を経て東京社会部に配属され、“川向こう筋”と呼ばれた上野、向島、浅草地区を担当した。下町情緒にあふれ、古い花街もストリップ劇場もある街。記者生活を「結構楽しかった」と振り返る。

 しかし昭和43年秋、転機はやってきた。社会党衆院議員(熊本1区)だった東海大学長、松前重義が、細川にこう切り出したのだ。「自分は次の選挙に出ない。いい機会だから、胆(はら)を決めて出たらどうか」

 細川には、いずれ政治の道に進みたいという明確な目標があった。高校時代、政治家として将来を嘱望されていた叔父がシベリア抑留中に亡くなり、その遺志を継ごうと思ったのがきっかけという。松前の得票10万余りの半分以上は組織票ではなく、保守系を含む個人票といわれていた。そこを狙えば、松野頼三ら古参議員のひしめく選挙区で、無所属でも勝機があるかもしれない。

 よし、ここは勝負どころだ。「一気に走り出すのが私の癖。親にも相談せず、新聞社に辞表を出していました」

 ところが、父・護貞は大反対。近衛内閣で秘書官を務めた経験もあり、政治は知らない世界ではない。「そんなヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない」。勘当だった。

 しかし、めげてはいられない。首相(当時)の佐藤栄作に相談すると、「隣へ行ったらいい」と勧められた。細川邸のある東京・目白に、同じく居を構える田中角栄だ。初陣の31歳を気に入った田中は「当選ラインは6万票。選挙までに3万軒、戸別訪問しろ」と言い渡した。早速、安い小料理屋で意気投合した学生2人を選挙運動員にスカウト、助さん角さんよろしく従えて、いざ熊本へ。

 が、現実は厳しかった。財産は退職金10万円とオンボロ車だけ。「カバン」は空っぽだ。熊本城主だった細川家だけに、「地盤」「看板」は多少ありそうだが、「とんでもない。『あなた、細川たかしさんの親戚(しんせき)か何か?』と聞かれるくらいで…」。無理もない。東京生まれの細川自身、熊本には幼い時に1度行ったきりなのだから。

 勘当された身で、熊本にある細川邸には入れない。「簡易旅館を転々としていると、たまたま知り合ったお医者さんが、気の毒だと言って看護婦寮の空き部屋に入れてくれました」。何とか戸別訪問に精を出すが、時間がない。結局目標の半分回るのがやっとだった。

 44年12月、運命の総選挙。結果は約3万8000票、落選-。

 「ただ、田中さんの言葉通り、回った地域では不思議なくらい票が伸びましたね。無鉄砲な挑戦でしたが、足がかりを得ることはできた」。その確かな感触は1年半後、参院選初当選で現実のものとなった。=敬称略

 文 黒沢綾子


元首相・細川護熙さん

【プロフィル】細川護熙

 ほそかわ・もりひろ 昭和13年、東京生まれ。上智大卒。朝日新聞記者、参議院議員、熊本県知事を経て平成5年、内閣総理大臣。還暦を機に政界を引退、神奈川県湯河原に「不東庵」を結び、晴耕雨読と作陶の生活に入る。陶芸作品を中心に書、漆絵などを展示した「細川護熙 数寄の世界展」が10月3~8日、大阪・なんば高島屋で開かれる。

 ■料亭とバッジ業界の抗議

 平成5年8月、38年間続いた自民党支配に終止符が打たれ、8党派連立による細川政権が誕生した。お茶の間はまず、細川の若々しく清新なイメージにくぎ付けとなった。例えば、立ったまま行う首相会見。今では当たり前の光景だが、当時はペンで記者を指名する姿とともに、「ホワイトハウス流」などと話題になった。同年の晩秋、米シアトルでのAPEC首脳会合でも、メディアは肝心の内容より、首相のマフラー姿に注目。繰り返し流された映像をおぼえている人も多いだろう。

 「寒かったので、娘から借りたマフラーを巻いただけ。なんでそんなに騒ぐのか、わからなかった」と本人。「何かにつけて『パフォーマンス政治』と自民党にたたかれましたね。普段の自分のスタイルでやっていただけなのに」と振り返る。

 一方で、自ら意識的に進めた行動も。1つは「料亭政治の廃止」。密室のイメージを避け、会合はホテルなどを利用した。さらに「国会の外では議員バッジを外す」と宣言。議員バッジを「国会議員の特権の象徴」と断じた。ところが、これが思わぬ波紋を呼んだ。

 まずは料亭の業界団体からの苦情。続いて女将の“伝言”があちこちから託された。「料亭というのは悪いところじゃございませんからね。細川さんによくおっしゃっておいてください」-と。

 「私は料亭に行かないとか、料亭が嫌いだとか、まして料亭が悪いと言ったことは一度もない。悪いのは隠密で不明朗で、国民生活と乖離(かいり)した『料亭政治』と言ったまで」と細川。折しも官官接待に批判が集まった時期で、料亭には閑古鳥が鳴いた。恨み節に仕方なく「料亭に行く代わりに、料亭から仕出料理を取って総理官邸で客をもてなしたことも。まあ、今でも料亭には恨まれているようです」

 バッジ業界も黙ってはいない。「特定の業界の存在意義を否定するかのごとき発言は許されない」と抗議を寄せた。自民党の代表質問でも「あなたのバッジ無用論が、不況にあえぐ全国のバッジ業界に大きな打撃を与えた」と糾弾された。

 細川は言う。「料亭政治の廃止も、議員バッジという権威をひけらかさないことも、いまなお正しいと思っている。でも、この経験で、総理の地位、あるいは政治そのものが、いかに国民の無数の利害の網の目に乗っているのかを自覚できた」

 「やはり、政治家の言葉には細心の注意が必要ですね」。元政治家としての実感だ。

(黒沢綾子)


記者会見のスタイルが話題を集めた細川護煕新首相
(平成5年8月)

 ■授業に興味なし、中学で落第

 「中学で落第なんて、あまりないですよね」。こう自嘲(じちょう)気味に語る元首相は、どんな少年だったのか。

 自著の中で、3歳で母と死別し「少しひねくれて子供から青年時代を過ごした」と書いている。カトリック系の清泉女学院小学校(神奈川県横須賀市=当時)では、お祈りの時間にわざと下品な言葉を口走るなど、他の男の子と変わらぬ腕白(わんぱく)ぶりを発揮。しかし、「この頃だけは勉強もよく頑張った」と振り返る。しかも「学究肌で堅物」という父・護貞は、息子が小学校に上がるころから、『論語』や『古文孝経』『万葉集』などの素読を厳しくたたき込んだという。

 おかげで、神奈川県内で当時ピカ一の難関校だった栄光学園中に合格。

 「ところが、入ってみると、ドイツ人の神父さんを中心にスパルタ教育が売り物のカトリック校でね。毎日、全員上半身裸で行進させられるのです」。意外にも、旧制高校の弊衣破帽、高下駄(げた)のバンカラに憧れていた細川少年にとって、学校の厳しい規律は苦痛以外の何ものでもなかった。

 「二次方程式やら因数分解などという代物に至っては何の価値も見いだせず、すべて落第の赤点。成績不良の者は見せしめの意味もあって校長室から呼び出しがかかるのですが、私は“呼び出され3役”に入っていました」。落第して1つ下の弟と同学年になるが、「もちろん弟の方が成績も良かった」そうだ。

 教科書そっちのけで読みふけっていたのは、古今東西の偉人伝。織田信長、ビスマルク、チャーチル、ディズレーリ…。好きなのは、歴史を動かしたリーダーや政治家ばかり。「キュリー夫人や野口英世の伝記には興味なかったですね」というのが、後の政治家らしい。「彼らがいずれも手のつけられない悪童で、学校を追放されたりするのを読んで、大いにわが意を得たり、でした」

 最近、父の遺品を整理していて、思わぬものを見つけたという。「ご子息の成績などについてお話ししたいことがあるので、学校までご足労願います」という呼び出し状と通信簿だ。

 「よくもまあ、父もこんなつまらんものを取っておいたもんだ(笑い)。当時の、生真面目(きまじめ)な父の仏頂面を想像すると懐かしく、笑えてくる。どうだ、ざまあみろ!」=敬称略(黒沢綾子)


細川護熙さん

 ■ピアノの先生を“釘付け”

 文武両道は、細川家の家風だろう。初代の幽斎はもちろん、2代の三斎以下、皆、能をたしなむ文化人だった。祖父・護立の時代には、屋敷の一角に能舞台まであったほどで、正月には一族郎党が集い、紋付き羽織袴(はかま)で謡い初めを行っていたという。

 護煕少年と弟も小学校に上がるやいなや、能の謡(うたい)と仕舞の稽(けい)古(こ)をさせられた。「金春流桜間金太郎先生が、稽古をつけに鎌倉まで見えていた」という。とはいえ、小学生が「花咲かば告げんといいし山里の…」などと教わっても面白いわけがない。先生が週に1度現れるたび、「あっ金太郎が来たぞ、逃げろっ」と、庭の植え込みに逃げ込んだりした。

 さらにもう一つ、習っていたものがある。ピアノだ。習うことになった経緯はわからないが、とにかく嫌だったらしい。「小太りでひっつめ髪で、子供の目から見るといかにも意地悪そうな、中年の女の先生でした。今の言葉で『ムカつく』というんでしょうか、『そんなに引っ張ったら、指が裂けるやないか』と口答えしたり、抵抗を試みました」

 極めつけは、先生がトイレに入ったところを見計らい、外から戸を釘付け。「破門」でやっとピアノから解放された。

 しかし、人生は面白い。後年、熊本県知事として英国を視察したときのこと。招待された家で初老の婦人がいかにも楽しそうにピアノを弾くのを見て、無性に弾いてみたくなった。知事公舎近くのピアノの先生のところへ飛び込み、譜面も読めないのに「ショパンの幻想即興曲を弾けるように教えてください」と頼むと、先生は「それは幻想でしょう」とあっさり。

 それでも、車で移動中に紙の鍵盤で練習するなど、忙しい公務の合間に猛特訓。「自分だけがわかる、独自の譜面もあみだした」というからすごい。2、3年でベートーベンの「月光」やアルベニスの「タンゴ」をマスター、アンコール用の数曲もモノにしたという。

 物事にのめりこむ凝り性は、既に玄人の域にある陶芸を見てもわかる。「テニスにしろ陶芸にしろ、何でもずっと続いているんですよ。ただ唯一、続かなかったのがピアノ。熊本を離れてからはすっかり忘れてしまった。先生が近くにいないと駄目ですね」

 たまに「あのひっつめ髪先生を釘付けにさえしていなければ、今ごろ…」と、華麗な指さばきを幻想するのだそうだ。=敬称略

 (文 黒沢綾子)=おわり

  
 
轉載自:http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/070925/plc0709250727002-n1.htm

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