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天馬行空的言語~ 漫天飛翔的思維~ 
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【わたしの失敗】政治評論家・三宅久之(77)

 直後に電話が鳴った。首相辞任に伴う番組出演を依頼するテレビ局からだった。「本当なのか」。がく然として聞き返したが、突然のニュースに相手も「事実を確認中ですが…」と答えるだけだった。その後も各局から出演依頼の電話が続いた。数時間後、首相が会見で辞任を表明。三宅は各局の番組に出演する多忙な日々を過ごした。

 「今回は、本当に政治評論家として、上を向いて歩けないような状況になっちゃってね」。安倍内閣擁護派を自任していた三宅は苦笑いを浮かべながら振り返った。

 

 「晋太郎さん」。こう呼ぶ三宅の声には親しみがこもっている。毎日新聞の政治部記者時代、先輩に安倍の父親で元外相の安倍晋太郎がいた。岳父・岸信介の秘書官になるため退職した夜、晋太郎は三宅らを連れて銀座に繰り出し、退職金を全部使い切った。

 「将来の選挙のために大事にした方がいい」と忠告する三宅に対し、晋太郎は「散々わがままして君らをこき使ったんだから、それはまた別だよ」と語った。

 呼び捨てが一般的な中で、先輩記者に「安倍ちゃん」と呼ばれ、ある種の雰囲気があったという晋太郎。「その晋太郎さんにかわいがられたから、よく知る晋三さんに対して父親のような気持ちでなんとか盛りたてたいと思って肩入れしたけれども…」

 昨年9月、安倍が「戦後レジームからの脱却」を訴え、「美しい国づくり」を掲げて首相に就任した。

 「安倍晋三という人は聞き上手な人でね、彼の国家観などには批判もあったが、私は久しぶりに出てきた正統派の保守の政治家だと思って応援してきたんですよ」

 今年7月、自民党は参院選で惨敗したが、安倍は首相続投を宣言。「私は獲得議席が30議席台なら辞めるべきと思っていたが、彼が続投し、新しい国づくりに取り組むというからそれならと思ってね」。内閣支持率が20%台に低迷し、安倍に対する風当たりが厳しい中でも「あえて安倍内閣を擁護する」と論戦をはった。

 「そうしていたら投げ出した。私としては本当に目も当てられない」

 

 安倍が内閣改造前の外国訪問時から体調不良だったことは、側近の秘書官に聞いて知っていた。「それにしても別の辞めようがあったはず。自分の所信表明演説に対する代表質問が行われる日に辞めたというのは、少なくとも政治家のとる態度ではありません」と厳しい表情で言い切る。

 50年以上にもわたる政治部記者、政治評論家としての活動の中で、さまざまな局面に直面し一筋縄ではいかない老獪(ろうかい)な政治家たちとも対峙(たいじ)。テレビなどでは時に手厳しい発言をしてきた。

 「『安倍さんに甘すぎる』といわれて、その通りになってしまって、最近の大失敗ですね。ゆっくり落ち着いたら安倍さんに文句言ってやろうと思っているんだけれども…」。そう言いながらも言葉には優しさがこもっていた。=敬称略(文・池田祥子)


政治評論家の三宅久之さん

 

【プロフィル】三宅久之

 みやけ・ひさゆき 昭和5年、東京都生まれ。28年、早稲田大学第一文学部卒業後、毎日新聞社に入社。政治部記者を経て、政治部副部長、静岡支局長、特別報道部長を歴任。51年、同社を退社後、フリーの政治評論家として活動を開始。「やじうまワイド」(TV朝日系)などにコメンテーターとして出演し、政治問題などに切り込む辛口評論で人気を博した。現在は、「たけしのTVタックル」(TV朝日系)や「たかじんのそこまで言って委員会」(読売系)にレギュラー出演している。著書に『「日本の問題点」をずばり読み解く』など。

 ■ばれた張り込み

 23年間の新聞記者生活のうち約20年間を政治部記者として過ごし、政局をめぐるスクープをねらって駆け回った。

 各紙の記者と同じように、三宅も政治家の自宅などに通い詰める毎日だった。その数は、1年間に朝晩で計600回は下らない。

 政治家の交友関係はもちろん、時には女性関係に至るまで知り得た。「親しくなると相手も隠さないしね。それがいいのか悪いのか、意見はある。しかし、本当の真相というのは深く付き合わなければ分からないという点がありますね」と語る。

 政治家と深く付き合うほどに、様々な情報が飛び込んでくる。第一線で活躍していた三宅だが、いまでも「残念な思いをした」と思い出す“書けなかった特ダネ”がある。

 自民党がまだ青々しい時代だった昭和34年1月、首相だった岸信介が、政権維持のために、後継を自民党副総裁だった大野伴睦にするという1面トップ級の情報が飛び込んできた。密約を結ぶため、岸、大野のほか、佐藤栄作、河野一郎、川島正次郎、児玉誉士夫ら計8人が東京の帝国ホテルで会合を開く-。

 三宅は、ホテルのロビーで張り込んだ。しかし、首相秘書官とばったり出会ってしまった。「三宅さん、なにやってんだ」。血相を変えて問いただす相手に、三宅は「えっ、デート、デート…」と切り返した。

 その後、場所を変えて柱の陰から様子をうかがっていると突然、肩をたたかれた。振り向くと、川島だった。「三宅さん、今日は中止だから。ここで待っていても誰も来ないからね」

 三宅はしらばっくれたが、結局その日収穫はなかった。しかし、その翌日に会合は行われた。「今度は知らなかった。それでスクープを逸して、その後、渡辺恒雄(読売新聞グループ本社会長・主筆)にやられたよ」。8人が集まるという情報は得ていたが、最終的に記事にするために必要な事実確認をとれず、涙をのんだ。

 「本来であればスクープなのに、裏がとれないために幻で終わってしまったことはよくあります。新聞記者っていうのは、そういう意味では失敗の連続なんですよ」=敬称略(池田祥子)

 ■寝過ごして番組に遅刻

 政治評論家として新聞やテレビに登場する機会が多い三宅だが、記者時代にもラジオ番組を担当していた。週1回、午前7時からの30分枠で、各紙朝刊の紙面を紹介する番組だった。代々毎日新聞の記者が担当していて、三宅は平記者から政治部副部長(デスク)時代まで10年以上続けた。新聞の解説が中心で、各紙の取り上げ方の違いやねらいを説明するように心がけた。

 記者時代は、午前0時前に帰宅することはめったになく、デスクになると2時を過ぎる。

 昭和40年代の冬のある日、デスクだった三宅は仕事を終え、いつものように未明の2時半ごろ帰宅し、眠りについた。

 朝、はっと目が覚めた。この日はラジオ番組出演の日。普段なら5時に家を出て、6時から局で朝刊6紙に目を通し、本番に備える。

 時計を見ると6時を過ぎている。目覚まし時計をセットし忘れていた。「大変だ!」。パジャマの上からズボンをはき、背広を羽織って家を飛び出した。まだ暗い中、表通りに出てタクシーを探すが、こんな時に限ってつかまらない。

 ようやく車に乗り込んだのが7時前。世田谷区の自宅から港区にあるラジオ局へと急いだが、いつも以上に赤信号に引っかかる。「車内で足踏みするような心境でね」。時は無情に過ぎる。「運転手さん、ラジオ!」。自分が出ているはずの時刻に、代役がつっかえながら話していた。

 到着したのは、番組が終わったときだった。駆け付けた三宅の奇妙な格好を見て、みな苦笑いを浮かべた。

 「後にも先にもこんなことは1回きりだったんだけれども、どの仕事でも大事にやろうという姿勢だけは持っていたので自分自身でも信じられなかった」。苦い経験は、改めて生活を律するきっかけとなった。今もテレビ出演や講演の際には1時間以上は余裕をもち、遅くても30分前には到着している。

 「評論家業をやっていてつくづく思うのは、テレビ出演でも講演でも、1回1回を大事に思って出るからこそ後が続くんだと思う。あの出来事は、私のその後の人生の非常な教訓になりましたね」。きまじめな三宅らしい戒めとなった。=敬称略(池田祥子)

 ■独立後、仕事なく職安へ

 「当時、評論家になればバラ色の未来があるとばかり思っていた」。46歳の時、三宅は毎日新聞社を退社した。かねてから評論家として独立しようという気持ちを持っていたが、現場を離れ管理職になったことがその気持ちを後押しした。

 ところが、いざ評論家としてスタートを切ったが、肝心の仕事がさっぱりなかった。

 「仕事がなかったのはほんと参っちゃってね」。3人の子供を抱え、収入を得るため、妻が自宅を改造して下宿を始めようと言い出した。

 恥ずかしさのあまり、帽子をかぶりサングラスを掛けて変装して、失業保険受給のため職安を訪れたこともあった。「今考えるとばかみたいな話だけれども…。この時は辞めるのを早まったかなと後悔もした。しかし、女房が下宿をやるっていうのに亭主がウロウロもできず、我とわが身にむち打ってね」と笑う。

 多くの人の支えもあった。退職時に政治家や知人にあいさつ状を送付したが、最初に返事をくれたのが元首相の中曽根康弘だった。当時は、それほど親しい仲ではなかったが、今日に至るまで付き合いが続いている。

 ライバル関係だった他紙の記者が激励会を開いてくれたり、講演の仕事などを紹介してくれた。「苦しいときの人の助けがありがたかった。そうして1年がたつころ、なんとかやれそうだと思えてきた」

 評論家として32年目を迎えた。週2本のテレビ番組にレギュラー出演するほか、年間100回もの講演をこなす。カレンダーにはスケジュールがびっしり書き込まれている。歯に衣(きぬ)着せぬ発言も三宅の人気の一つだが、「放送禁止用語をしょっちゅう使うんだけれども録画だから致命的な問題にはなっていない」。

 一方で、「失敗も多かったが、後悔しなかったのは政治家にならなかったこと」だという。

 親しい政治家からも随分勧められたが、その気は全くなかった。「政治家として成功した人は別として、挫折経験もいっぱい見たからね。落選して、家族もみなそのために犠牲になって身をかがめて生きていかなければならない部分もあるでしょう」。常に政界の機微を見つめ続けてきた人は、朗らかに大きく笑った。=敬称略(文 池田祥子)
 
 
轉載自:http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071016/acd0710160314002-n1.htm

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