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天馬行空的言語~ 漫天飛翔的思維~ 
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【わたしの失敗】料理人・神田川俊郎さん(67)

 「料理長は宮下さんという人で、腕は立つけれども厳しい人でした。出刃包丁で頭をたたかれ、血が出たこともある。このときは見本をよく見て、同じようにやったつもりでしたが…」

 なぜなのか。前から見ると見本通りなのだが、横からだと何皿もある盛りつけは、ばらばらだった。「まだまだあかん」。そう思うとよけい悔しさがこみ上げてきた。仕事が終わってからトイレに隠れて泣いた。

 その後、宮下は神田川に盛りつけの極意を伝える。「器に絵を描く気持ちで盛らなあかん」と。遠近法で描かれた絵はどこから見ても中心を感じさせる。料理の盛りつけも同じようなことだったのだ。

 洗心亭では約3年働いた。

 「厳しかったのはありがたかった。当時は料理の本なんかなかったし、体で覚えるしかなかった。だから、忘れへんのです」

                   ◇

 神田川の父は京都市内で鰻(うなぎ)屋を営んでいた。屋号は「神田川」。祖父が東京でこの屋号の鰻屋を開き、後に京都に出店した。神田川の本名は大竹俊郎だが、神田川を名乗るのはこの屋号にちなむ。

 そんな環境もあって、小学生のころから料理が好きで、「大きくなったら料理を作って、人を喜ばせる仕事をしたい」と思っていた。

 父をまねて鰻をさばいて遊んでいた時期がある。最初はうまくいかず、何本もむだにした。父は「もうやめとけ。もったいない」とたしなめた。そこで、周辺の料理店にアルバイトに行き、魚をさばかせてもらった。

 中学生のとき、高校に進学するか、働きに出るか迷った。経済的に裕福な家庭ではなく、きょうだいも多かったが、両親、特に母は進学させたかったという。けれど、「いずれ料理人になるんだったら早いうちに」と食の本場・大阪で修業することを決意した。

                   ◇

 昭和34年、洗心亭で修業していた神田川に飛躍のチャンスが訪れた。当時大阪に本店を置いていた名門料亭「なだ万」に、魚についての仕事が一任される向板(むこういた)として迎えられたのだ。

 入ってすぐ、料理長から「魚をおろしてみろ」と促された。名門料亭が抜擢(ばってき)した若い向板だ。その腕前にほかの料理人たちの目が注がれる。これまでの人生の中で「一番引き締まった思いがした」瞬間だった。

 「失敗しました。おろすだけならだれでもできる。でも、艶(つや)がなかった。いつものようにできなかった」

 いいところを見せたい。そんなちょっとした邪心が手元をくるわせた。

 神田川は俎板(まないた)を、「真実の心を映す鏡」という意味を込めて「真板」と書く。気持ちにちょっとでも隙(すき)があると、俎板は許してくれない。たびたび口にする「料理は心」という言葉にはそんな厳しさも含まれている。

 =敬称略

 文 青木勝
                   ◇

【プロフィル】神田川俊郎

 かんだがわ・としろう 昭和14年、京都市生まれ。「なだ万」などで修業した後、37年に独立し、大阪・お初天神に創作おでんの店「ふく柳」を開く。40年、大阪・北新地に「神田川」を開店。素材やジャンルにとらわれない新日本料理を提唱し、「料理の鉄人」(フジテレビ)などのテレビ番組で注目を集める。現在は「愛のエプロン」(テレビ朝日)などに出演。日本調理師協会名誉会長。

 ■生きたアラにビックリ

 一世を風靡(ふうび)した料理番組「料理の鉄人」(平成5年10月~11年9月放映、フジテレビ)に、神田川は挑戦者として、また、鉄人に挑戦する弟子たちの後見役として度々出演した。挑戦者が和、フレンチ、中華の鉄人(9年からはイタリアンも加わる)から1人を指名し、1時間以内で料理をし、審査員が勝敗を決める。

 神田川が「えらい失敗。きょうは負けや」と覚悟した対戦がある。二代目和の鉄人、中村孝明に挑んだ「アラ(クエ)対決」(9年12月放映)だ。中村は当時、名門料亭「なだ万」の統括料理長。若いころなだ万で修業した神田川にとっては後輩になる。

 テーマが発表されるといけすの中を泳ぐ大きなアラが出てきた。神田川は「どうせ死んで出てくる」と思っていて、意表を突かれた。

 「アラは22、23キロはあって、調理台の上で暴れた。孝明君の方は専門の魚屋の人がしゅーとさばいた。こっちの助手役に『アラをさばいたことあるんか』と聞いたら『初めてです』って」

 神田川は生きのいいアラと格闘。この時点で大幅に時間をロスした。「慌てたわ。もう間に合わへんとおもた」

 判定の結果は神田川の勝利。中村は2連敗中で「もしこの勝負で負けたら鉄人を引退する」と宣言しており、神田川がなだ万の後輩に引導を渡す形になった。

 「僕がやめさせたみたいになってしもて。言わんでいいのに言うたから、あんなことになったんや」

 一方、初代和の鉄人、道場六三郎との「ブリ対決」(7年1月放映)は「絶対に負けてない」と振り返る。このときは道場への挑戦権を得るため神田川を含め4人の料理人による予選を実施。神田川と道場は宿命のライバルという位置づけで、双方の派手なパフォーマンスも番組を盛り上げた。ちなみに2人は個人的には親しい。

 神田川は日本料理らしい7品、道場は意外性のある5品を作る。審査員の判定は僅(きん)差で道場の勝ち。しかし、「今戦ってもええ勝負になるやろね。でも、あれは完全に僕が勝ってた」と譲らない。

 昭和40年代からテレビ界で活躍してきた神田川は、料理の鉄人を「日本の料理のレベルを上げるきっかけになった番組」と評価する。=敬称略(青木勝洋)

 ■好意がアダ「毒盛った」

 古くからテレビの料理番組に出演してきた神田川は、ワイドショーでも主要な登場人物の1人になってしまったことがある。平成11年春に起きたサッチー・ミッチー騒動に巻き込まれたのだ。

 野村沙知代浅香光代がけんか状態になり、多くの芸能人らがサッチー派、ミッチー派に分かれて論争を繰り広げた。神田川は世間ではサッチー派とみられていた。

 「(野村と浅香の)どっちとも仲がいいんですよ。2人に仲ようしてもらおうと思って間に入ったのに、逆に失敗ですよ」

 神田川は仲裁のため2人にフグ鍋セットを送った。「春フグというのはおいしいんですわ」。神田川なりの気遣いがあったのだ。

 ところが、このフグが騒動の新たな火種となる。ミッチー派の人物が「毒を盛った」という趣旨の発言をしたのをワイドショーなどが取り上げ、神田川への風当たりがにわかに強まった。

 毎日朝から神田川の店にいやがらせの電話が100本以上かかってきた。手紙もあった。直接店にやってきて、いやみを言って帰る人もいたという。いやがらせは7、8カ月続いた。仕事にならなかった。

 「本当に迷惑でした。でも、けんかしてる人の間に入るにはそれなりの覚悟がいる。覚悟しきれへんのやったら、余計なおせっかいはせんほうがええと後で思いました」

 騒動はこれだけでは終わらなかった。騒動についてテレビ番組で神田川デヴィ夫人と激しい論争を繰り広げた。デヴィ夫人は、神田川にひどいことを言われたとして侮辱罪で告訴する考えを表明。神田川はすぐに謝罪した。

 「訴えるといわれたからではなく、自分が悪かったと思ったから素直に謝りました。そしたら今度は『だらしない』という人が出てきて。世間は難しい」

 神田川は「人生、上り坂、下り坂、まさか」とよく口にする。騒動に巻き込まれたのは「まさか」。自分の予想をはるかに超えて物事が展開し、大きくなっていく。テレビの恐ろしさを思い知らされたできごとだった。=敬称略(文 青木勝洋)

 「何を話したらええのやろか…」

 昭和37年、名門料亭「なだ万」から独立したばかりのころ、神田川は悩んでいた。初めての自分の店「ふく柳」(大阪・お初天神)は、カウンター越しに神田川自身が創作おでんを客に出す。料亭で修業した神田川にとって、それまでの仕事場は調理場。客と話す機会はあまりなかった。

 今でこそテレビの料理番組などに出演し、軽快な語りで知られるが、当時は人前で話すのは不得手。妹の結婚式であいさつを頼まれたが、しゃべれなかったほどだ。

 そんな神田川を、母のマサは「カウンターの中は舞台、料理人は役者や」と叱咤(しった)激励。神田川は客が帰った後の店内で、鏡を見ながら空き瓶をもって「一杯どうぞ」「いただきます」などと声を出しての特訓を始めた。

 しかし、「いらっしゃいませ」といっている鏡の中の自分を見て驚いた。気むずかしそうな顔をしていたのだ。「これはあかん」。自分の表情を観察し、5つの自分の顔を知った。言葉に表情がついていくようになった。

 「お客さんあっての商売」だから、客にかわいがってもらうための努力をする。当たり前のようだが、当時は「料理人は裏方で、接客業ではない」という考えがふつうだったという。

 接客業としての料理人を目指した神田川がテレビと結びついたのは必然だったのかもしれない。しかし、昭和40年代にテレビに出演し始めたころは「権威がなくなる」「下品だ」と批判されることも少なくなかった。

 「でも、垣根を越えなあかんしね。視聴者に日本料理のことをわかってほしいし、料理人にも接客業を覚えてほしいという思いがありました」

 神田川は早くから後進の指導にも力を入れている。自身の料理番組に弟子をアシスタントとして出演させることも多いが、それも接客の教育の一環なのだという。

 弟子たちにはよくこう言い聞かせる。「石の上に3年、橋の上に3年、泣いて3年、笑って3年」。日本料理を体に覚え込ませるには最低それだけの時間がかかるという意味だ。

 「けれど、料理の世界でも何の世界でも、出発点あって終着点がないのが人生ですから」 =敬称略(文 青木勝洋)
  
 
轉載自:http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/071030/sty0710300322001-n1.htm

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