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天馬行空的言語~ 漫天飛翔的思維~ 
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【わたしの失敗】作家・桐島洋子さん(70)

 志望するジャーナリストの仕事とは程遠い毎日。「やっぱり大学に進んだ方がよかったのかな」と幾度も後悔したが、高校時代、さんざん悩んだ末に大学には進学しないことを決めていた。戦後の“斜陽家庭”で家計は苦しく、少しでも早く実社会で経験を積みたいと考えていた。

 「最初は腐っちゃったけど、発想を大転換したの。私は大学の4年分を近道して会社という“奨学金”までもらえる“学校”に入学したんだと」

 その後、社員句会で優勝するなど徐々に文才が認められた桐島は編集部に配属され、数年後に入社してきた大卒の同年代と机を並べた。「私は実社会で学んだ分、学歴のハンディを意識することはなかった」

                   ◇

 仕事も遊びも脂が乗ってきた20代半ば、あこがれていた編集部の次長が音頭を取って社内に結成されたダイビング同好会に参加。神奈川県真鶴町の海で、潜り疲れ甲羅干しをしていた桐島はふと、次長の姿が見えないことに気づく。仲間が捜したところ、次長は海底の岩場であおむけになって息絶えていた。

 「それ以来、海好きだった私が海に近づけなくなってしまったの」。物憂い毎日を送っていたところ、電車内で初老のアメリカ人男性と出会う。ある日、海に誘われ、「このまま海を嫌いになりたくない」と、思い切って出かけると、海中の彼は別人のように若々しく、精悍(せいかん)だった。たちまち恋に落ちた相手は、二回り以上年上の米退役海軍中佐だった。

                   ◇

 やがて子供を身ごもった。しかし、彼はアメリカに離婚係争中の妻がおり結婚は不可能で、当時、結婚したら女子社員は退社するのが会社の決まり。そこで「未婚のまま産むのがちょうどいい」と開き直った。

 妊娠8カ月まで服装や立ち居振る舞いに工夫を凝らしてひた隠し、急性腎炎と称して会社を休んだ。27歳のとき、海辺の隠れ家で長女・かれんを出産し、1週間後には人に託して仕事に復帰。「隠し子の存在はいつかばれるだろう。それまでに時間を稼いで、編集部でなくてはならない有能な記者になれば認めてもらえるかもしれない」。格闘の日々だった。

 ところが翌年には2人目の妊娠。海外渡航が自由化されたころで欧州旅行の帰路、当時医療費が無料だった船上出産を思いつく。見聞を広げる目的で一度は認められた旅行休暇願が直前、「2週間ならともかく2カ月は無理」と却下された。

 しかし、おなかはどんどん膨張していく。未婚の母なんてとんでもない時代。「もう隠し通せない」。進退窮まった桐島は、会社に辞表を出した。=敬称略(文 横山由紀子

                   ◇

【プロフィル】桐島洋子

 きりしま・ようこ 昭和12年、東京生まれ。31年に都立駒場高校を卒業後、文芸春秋に入社。9年間勤務した後、フリーライターとして海外を放浪。42年、ベトナム戦争の従軍記者となり、47年にはアメリカ社会の深層をえぐった「淋しいアメリカ人」で第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。長女・かれん(モデル)、二女・ノエル(エッセイスト)、長男・ローランド(写真家)の子育てを卒業した50歳からカナダに暮らす。「聡明な女は料理がうまい」など著書多数。

 ■戦場の高揚感で得意顔

 ベトナム戦争真っただ中の昭和42年、従軍記者となった桐島は軍服をまとい、米軍機がばらまいた戦闘食糧を兵士とともにむさぼり、夜は塹壕(ざんごう)で身を休める生活を送っていた。

 時々草むらに寝ころんでは空を仰ぎ流れる雲を眺めながら、「いったい私は、ここで何をしているのだろう。なぜここいるのだろう」。そんな思いにとらわれた。

 編集長を夢みた文芸春秋を退社し、未婚のまま欧州旅行の帰りの船上で第2子を出産。その後、子供たちの父親がベトナム行きの貨物船の船長となり、“夫人”としての船上暮らしもつかの間、彼が船主とけんかをしてベトナムの港で船を降ろされてしまう。

 「こうなったら今度は私が働く番。ジャーナリストのはしくれだったんだから従軍記者になろう」。大見えを切ったものの特派員のように大手を振って従軍記者ができるわけがなかった。ある日、サイゴン(現ホーチミン)の街を歩いていた桐島はハンドバッグをひったくられた。旅券の再発行に駆けずり回った役所でわいろが横行していることに気づき、アメリカ製のたばこやウイスキーを持参する手口でベトナム政府の記者証を入手。

 晴れて従軍記者となった桐島は、前線基地のダナンやドンハに暮らしながら、米軍が侵攻した南北ベトナムの国境線に沿って設けられた非武装地帯に踏み込んだ。救急テントで、手足をもぎ取られ死のふちにある兵士たちを看護する従軍看護師にくぎ付けになった。それは、男女の区別を超越し、なんの甘えも気負いもないプロフェッショナルの姿だった。

 「どうだ格好いいだろう、とばかりに戦場のスリルとヒロイズムに高揚していた私の得意の鼻を、彼女たちの雄姿がへし折ってくれたの」

 戦場の死は日常茶飯事だった。「前線の兵士は、20歳そこそこの人生の門口にたったばかりの貧しい田舎出身の若者が多くてね。兵役を終えたら奨学金で大学に進学するんだ、写真の彼女と結婚するんだと、熱く語っていた子が翌日には首をもぎ取られて死んでいくの」

 「あんまり欲張ったら死んでいったあの若者たちに申し訳ない」。生き残った者の罪悪感「サバイバーズ・ギルト」が、その後の人生に深い影響を及ぼす。=敬称略(横山由紀子)
 


非武装地帯に進行した米軍に同行した桐島(右)。
ベトコン地下壕からの捕獲品に囲まれて

 ■NYのバス停で置き引き

 ベトナム戦争の従軍記者を経験し、日本に戻った桐島は第3子となる男の子を出産した。籍を入れないまま、長女かれん、二女ノエル、長男ローランドと3人の子をなした米退役軍人の彼との別れが訪れた。「女が1人で仕事して生きているといろいろもてるわけよ。彼が焼きもちを焼いて、私もだんだん煩わしくなってしまって」

 3人の子供を養育できるだけの収入の道を日本で見つけることができなかった桐島は、ベトナムで垣間見たアメリカという自由な国に活路を見いだす。「仕事のない日本で絶望してしゃがみ込んでいるより、いちかばちかアメリカに行けばなんとか道が開けるかもしれない」

 まだ手のかかる2歳のノエルは母親に、生まれたばかりのローランドは24時間保育の病院へ託し、3歳のかれんだけを伴って三十路の桐島は初めてアメリカの土を踏んだ。顔見知り程度の友人がいるだけで、頼りになるつては何もなかった。

 ニューヨークのバス停留所で、重いスーツケースを置いて雑誌を買いに走ったほんの数分後、スーツケースがなくなっていた。衣類やカメラ、本、母の思い出の指輪など、日本から持ってきた全財産が入っていた。雑誌か何かに売り込もうと持参したベトナム時代の貴重な写真も含まれていた。

 「青ざめて本当にどうなることかと思ったわ。異国の地で丸裸になっちゃったんだもの。しばらく立ちつくしたけど、ポンと突き抜けちゃって。もう失うものは何もない壮絶な爽快(そうかい)感だった」と回想する。

 身軽になった桐島は、気の向くままにさばさばと放浪を続けた。日本語教師や翻訳、ベトナム従軍時代の体験を語ったミニ講演会などで食いつなぎ、日本に残した子供の養育費を送金。ぎりぎりの生活だった。

 「広大な国だけあっていろんなモノ好きがいるものね。私みたいな3人の子供のいる大年増にも求婚者が現れたの」と語るお相手は、無類の子供好きで離婚経験のあるユダヤ系の富豪だった。日本に残していた2人の子供も呼び寄せ、このまま結婚した方がこの子たちのためかと思ったが、「この家具はいくらした」など金の話しかしない相手にうんざり。「やっぱり、考え方の違う人とは結婚できない」と富豪の下から逃走する。

 3人の子供を抱え再び独りになった桐島は、カメラを売るなどして急場をしのいだ。アメリカでのさすらいは数年にわたった。=敬称略

横山由紀子


アメリカ放浪から帰国し3人の子供たちと記念撮影
(右から桐島、ローランド、ノエル、かれん)

 ■電撃結婚でバッシング

 「えーっ、お母さま結婚するの?」。驚いたのは子供たちだけではなかった。「いまさらもう結婚なんて、家族公認の恋人同士でいいんじゃない」。母親までが当惑顔だ。

 44歳まで独身を通した桐島が、一回り年下の古美術商と電撃結婚した話題は当時、センセーションを巻き起こした。桐島は既に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した売れっ子作家であり、シングルマザーとして3人の子供を育てる自立した女だった。因習にとらわれないカリスマ的存在として取り上げた雑誌もあった。そんな彼女にあこがれ、お手本とした女たちにとって、桐島の結婚は少なからぬショックを与えたようだ。

 「『裏切られた』『自立をあおられ、はしごを外された』なんていわれたけれど、私は昔から結婚否定論者ではなかったし、私なりの人生を精いっぱい生きてきただけ」

 そんな夫とは、約20年間連れ添った。「いいことも悪いこともすべてのことに意味があると思っているから、結婚も離婚も全然後悔していない。離婚した今でもいい友達よ」と振り返る。

 自らの信念に基づいて生きる桐島は、節目ごとに潔く人生をリセットしてきた。「あんまり欲張りすぎたらだめ。ある程度まで行くと、もういいって思っちゃうのね」

 超多忙な作家生活を送っていた40歳目前には、仕事を断って1年間、子供たちとアメリカで暮らした。「絶好の稼ぎ時に日本脱出なんてもったいない」といわれたが、命の洗濯と子供たちの教育に惜しみなく時間を使った。

 50歳で子供たちが巣立ってからは、人生の実りの秋を意味する「林住期」を宣言して仕事を絞り、カナダの大自然の中で晴耕雨読の日々を送っている。

 「私はビッグにもお金持ちにもなれなかったけど、浮かれず相応な暮らしができたと思ってる」

 今夏、70歳になった桐島は、「しばらくエンジンを再始動して、多少なりとも世の中の役に立ちたい」と、人生で培った智恵や経験を伝える大人の寺子屋「森羅塾」を来春東京で開催する。古希を迎えた彼女にまた、実り多い転機が訪れるに違いない。=敬称略(文 横山由紀子



  
轉載自:http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071120/acd0711200332002-n1.htm

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