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天馬行空的言語~ 漫天飛翔的思維~ 
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【わたしの失敗】プロ野球解説者・掛布雅之さん(52)

 対戦した東洋大姫路の校歌が流れるのを聞いて、レフト側のアルプス席に走った。応援団にあいさつをして、隣にいた先輩の嗚咽(おえつ)に気づいた。

 「ぼとっぼとって地面に涙が落ちてた。そのときに、なんでもっとがんばれなかったんだろうって思ったんです。仕方ないと思った自分が恥ずかしくて悔しくて…」

 掛布は泣いた。

                * *

 習志野高校は、掛布が入学する数年前に夏の甲子園を制していた。そんな強豪チームで、1年生の秋から4番を打った。

 「僕らの学年にはいい選手が多くてね。練習試合も負け知らずでしたから。『上級生がいなくても大丈夫や』みたいな雰囲気があったんですね」

 そんなチームがうまくいくはずがない。反目が強まり、2年生が練習をボイコットする事態を招いた。監督やコーチがどう奔走したか、約1週間後に部活動は再開したそうだが、その日の練習後、1年生は2年生の集まる部室にひとりずつ呼び出された。

 「前に入ったヤツのうめき声とか聞こえてくるわけです。うわぁ…と思ってね。入ったら『正座しろ』ですよ。習志野の正座ってのは、手を後ろに組んで目をつぶれってことで…」

 座ったとたん、「手やら足やら、なにがなんだかわからないぐらいボカボカボカッて飛んできた」。いまなら大問題だろうけど、「ビンタやケツバットが当たり前で、頭から血を吹き出したやつもいましたね」なんてころの話だ。

 「そのあと、2年生が1年生を集めて言ったんです。『これで水に流そう』って。儀式ですね。ボクサーが試合後に抱き合うみたいな。でも、いま思えば、それで甲子園に行けたようなもんですよ」

 結束したチームは強くなった。掛布も打ちまくった。大会では打率4割をマーク。そうやって迎えた甲子園大会の初戦だった。

                * *

 「過去の試合のことはけっこう覚えてるほうなんですけど、あの試合だけは、記憶のない記憶っていうのかな、エアポケットみたいで。覚えてるのは満塁ホームランの場面だけ」

 打者はのちに阪神タイガースで同僚になる山川猛。カーブをバットがとらえる。アッと思う間もなく、ショートを守る掛布のはるか頭上を打球が飛んでいった。

 「その瞬間に自分たちの野球が飛んじゃったような気がします。独特の雰囲気にのまれたんでしょうね」

 自身は4打数1安打だったというが、スコアも定かではない。たった1試合の甲子園は、あいまいな記憶の中にある。ただ、強烈なインパクトだけが残っている。「僕の野球人生というのは、あの試合に戻ります」というほどの。

 「失敗といっても、エラーや三振の話じゃない。4番として、チームとして、違った何かができたんじゃないかって、いまだに考えるんですよ。でも、きっといつまでも、答えはないままなんでしょうね」

 =敬称略

(文・篠原知存)

                   ◇

【プロフィル】掛布雅之

 かけふ・まさゆき 昭和30年生まれ。千葉県の習志野高校卒。入団テストを受けて、48年のドラフトで6位に指名され、阪神タイガースに入団。不動の4番打者に成長し、「ミスター・タイガース」と呼ばれた。63年、33歳で退団するまでに本塁打王3回(57年は打点王との2冠)、ベストナイン7回、ゴールデングラブ6回を獲得。通算349本塁打。

 ■三ゴロを見事にトンネル

 ミスタータイガースの振り出しは、テスト生だった。「もう時効ですけど、高校をずる休みして阪神の入団テストを受けたんですよ」。無名だった新人が、プロ入り早々からレギュラー争い。3年目にはオールスター戦に出場した。順風満帆のデビューだったように思えるが、本人は「いやいや」と苦笑する。

 「飛んでくる球が全然取れなかったですもん。いやほんと」

 いまもはっきりと覚えているエラーがある。入団2年目の昭和50年6月、甲子園でのヤクルト戦。1点を先制されたが、エースの江夏豊は毎回奪三振の力投をみせていた。投手戦は、6回に二死満塁の局面を迎える。

 「試合の途中からサードを守ってたんですけど、打者の背中がやたらと大きく見えた。『来るなよ来るなよ』って願ってましたから。もうその時点で負けてますよね」。サードゴロを見事にトンネル。2点が入り、続く打者が3ランホームラン…。万事休す。

 「試合後にロッカールームに入れなくて、扉の前でしゃがみこんでた。そしたら江夏さんが『なにしてんだ、バカ』。気にするなってね」

 1年目はもっと悩んでいた。練習ではできることも、試合のスピードになるとついていけない。チームに迷惑をかけることがつらくて、守備コーチの安藤統男に直訴した。「二軍に落としてください」と。

 あのなぁ、と諭された。「エラーをすることがダメなんじゃない。気持ちが後ろ向きになるのがダメなんだ。いいから早めにグラウンドに来い」。個人ノックを毎日たっぷり食らった。

 のちに、「掛布は絶対にものになるから一軍で育てる。どんなミスをしても落とさない」と金田正泰監督が宣言していたことを知らされた。「どこの馬の骨かわからないテスト生を、ですよ。ほんとに感謝してます」

 15年間の現役生活で、守備の卓越した選手に贈られるゴールデングラブ賞を6回獲得した掛布は言う。

 「どんなスポーツにも失敗はつきもの。僕はミスしたときにフォローしてくれる先輩や同僚に恵まれた。厳しく、優しく、向かうべき方向に舵(かじ)を取ってもらいました」=敬称略(篠原知存)


まだ「若虎」と呼ばれていたころ(昭和53年)

 ■車「寂しそう」…酒気帯び運転

 「僕の失敗といえば、飲酒運転ですが…」

 問わず語り。聞こうとは思ってたけど、質問したわけじゃない。覚悟していたようにそんな言葉が出てきた。痛恨の記憶なのだろう。にこやかだった表情が、この時ばかりはさすがに曇る。

 昭和62年3月、オープン戦のさなかに道路交通法違反(酒気帯び運転)で兵庫県警に現行犯逮捕された。即日釈放されたが、球団には謹慎処分を受けた。

 「掛布選手が“大トラ”逮捕」。新聞にはそんな見出しの大きな記事が躍った。看板選手の不祥事に球団オーナーが激怒した、とも伝えられた。

 「大阪のホテルで知人と飲んでたんです。帰るとき、ホテルの人も『車は置いていってもいいですよ』って言ってくれたんですけどね、車が寂しそうに見えたんです。『連れて帰って』って言ってるみたいで…」

 当時の愛車はフェラーリ・テスタロッサ。どこをどう走ったかあまり覚えていないが、兵庫県西宮市名神高速に入るところで検問にあった。

 「逃げも隠れもできない。もう、すみませんと言うしか。体力とか、いろんなことを過信していたと思います」

 現役時代は、ポルシェベンツBMW、そしてフェラーリと高級車を乗り継いだ。運転も好きだが、「1人になれる空間」として大事だったのだという。人気球団のスター選手。どこに外出してもファンやマスコミに追い回される。運転席には、貴重なプライベートの時間があった。

 「独身時代に合宿所(虎風荘)にいたころも、近くにガレージを借りていたんです。止めてある車に座って、ぼーっとしてまた部屋に戻ってくる。そんなこともしてましたね」

 それにしても、酒気帯び運転は大失敗。「グラウンドで取り返すしかない。そう言ってましたし、思ってました。でも、そんな甘いもんじゃないですね、取り返せるようなことじゃ…」。胸の苦渋に押しつぶされるように、言葉が沈んで、消える。

 最近は、車を運転する機会も減ったそうだ。「あのとき事故につながらなくてよかった。ほんとうにそう思います」(文 篠原知存)


 ■連続出場記録にこだわり

 ストレートが顔面に迫る。のけぞって避(よ)けたが、ビシッという鈍い音とともに、左手首の骨が砕けた。

 「前の打席でホームランを打ってたんで、インコースで体を起こしたかったんでしょう。力が入ったのかな」

 阪神タイガースが日本一に輝いた翌年の昭和61年4月20日。その日まで続いていた記録に、死球が終止符を打った。56年の開幕戦から5年と少しをかけて積み上げた663試合連続出場。それは掛布が「タイトルよりもこだわっていたこと」だった。

 「僕はね、監督が(先発選手の)メンバー表を作るときに、考えなくてもいい選手になりたかったんです。最初に書き込んでも、最後まで空けといてもらってもいい。ただ『4番、サード掛布』だけはいつも決まってる。そういう選手であり続けたかった」

 全試合に出る。休んでファンを失望させたくない。それがミスタータイガースの誇りだった。死球のあとも「出る」と言いはった。医師に「無理です」とギプスをはめられた。全治4週間。ところが5日後には、ギプスを切ってしまったのだという。「マスコミにはわからないように、取り外しのできる特製ギプスを作ってね。試合が始まると誰もいなくなるから室内練習場で練習した」

 天才型ではない。練習の虫といわれた。調子が落ち込んだときも素振りと打ち込みが脱出法だった。でも、骨折に練習は無謀だった。いまは自分でもこう振り返る。

 「きちっと休んで、いい状態で戻ったほうがよかったかなとも思います」。無理はたたる。それからの選手生活は、繰り返される故障とケガとの闘いになった。

 「痛みとはつきあえても、気持ちの糸が切れたときに、もう一回結ぶのにどんどん苦労するようになった。ファンを裏切りながら野球をやるなら、ユニホームを脱ごうと思いました。でも、悔いは残ってないですよ。入ったのがテスト生ですから」

 早すぎると惜しまれつつ、33歳という若さで引退を決意した。63年10月10日、甲子園で迎えた最後の試合。村山実監督がスタメン表を書いた。真っ先にこう記した-と思いたい。

 「4番、サード掛布」=敬称略(文 篠原知存)


野球解説者の掛布雅之さん

 
轉載自:http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/071204/bbl0712040331001-n1.htm

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