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天馬行空的言語~ 漫天飛翔的思維~ 
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【わたしの失敗】数学者・藤原正彦さん(64)

 一般的に「国家論」は、そう広く読まれるものではない。当の本人も、「せいぜい5万部いけばいいかな、ぐらいだった」し、出版元の新潮社編集部でも、「うまくいって10万部」と見積もっていた。

 それが発売2カ月余で67万部の快進撃。同時に、「品格」という言葉の響きが広く受け入れられ、他の本のタイトルやテレビなどにも頻繁に登場。18年の流行語大賞を受賞し、社会現象にもなっている。

                   ◇

 そうして「品格」が、ひとり歩きを始めると、「藤原正彦は日本一、品格のある男」、そんなイメージがつきまとうようになる。

 街を歩けば、連れ立った女性たちから「ほら、あのセンセよ、品格とかいうの書いた」などと、騒がれるありさま。

 「いやぁ、本人が一番戸惑いましたよ。悪いことは何もできなくなってしまったわけですから…。女性とふたりで食事とかね。『国家の品格の著者の品格を問う』なんて、週刊誌にスキャンダラスに書き立てられぬよう、生活全般に注意を払ってますよ。おかげで日本一、清らかな人間になりましたけど」

 自宅には、連日昼夜を問わず、テレビ番組の出演依頼が殺到。でも「メディアに露出するのは性分じゃない」。すべて丁重に断るのが妻、美子の日課となった。

 「以前のように、落ち着いて執筆できなくなってしまったのも思いもよらない痛手」とか。

                   ◇

 タイトルが秀逸だったとも言われるが、そもそも「品格」で本を出すつもりはなかったという。

 「どうもうさんくさいというか…。自分に品格が備わっていないからかもしれません」。そんなことをさらっと話すが、新田次郎を父に、藤原ていを母に持つ元来の品の良さは隠せない。むしろ、居心地の悪さは世間の目線の変化によるものだろう。

 数学者、藤原正彦の名前を世に広く知らしめたのは、昭和52年に出版された『若き数学者のアメリカ』だった。これをきっかけにユーモアあふれるエッセーの名手としてその名をとどろかせている。

 だが、「品格」がブームになった途端、新聞や雑誌の執筆依頼は「論説」ばかりに。「『論客』と判を押されたのは心外です。私の真骨頂は情緒的なものの見方」と力を込める。

 ただし、「ベストセラーで大いに助かったこともあるんですよ」とニヤッとする。取材場所となった閑静な住宅街に建つ瀟洒(しょうしゃ)なマンションは、仕事場として2年ほど前に購入したものの、多額のローンを背負った。英国のバッキンガム宮殿をもじって「借金ガム宮殿」と、家族から冷やかされていたという。

 「そのローンが本の印税のおかげで一括返済できましたから。でも、『品格』なんて言葉、使わなきゃ良かったなぁ」=敬称略

 文 中島幸恵


 ■高校受験 数学でパニック

 「学校の成績は抜群に良かったのでしょうね」。野暮(やぼ)な質問と承知しながらも、つい聞いてしまった。

 「数学、英語はいつもトップクラス。だけど、高校入試では絶対の自信があった数学に思いがけずつまずいてしまってね」。思わず、身を乗り出した。

 サッカー少年でもあった藤原が、文武両道を目指して第一志望に選んだのは、当時サッカーも都内でトップレベルの強豪だった東京教育大付属高校(現筑波大付属高校)。

 入試当日、数学の試験開始が迫っていた。ふだん通り気負いはない。ふと、父(新田次郎)の助言が脳裏に浮かんだ。

 数学試験の心構えとして、「最初の比較的簡単と思われる計算問題は後回しにして、最後の応用問題から先に手をつけるべき」と言われていた。

 だが、それに反発していた。「とんでもない、おれは数学に絶対の自信がある。問題を片っ端からすべてなぎ倒して満点をとるに決まっている、と信じて疑いませんでした」

 意気揚々と問題用紙をめくったが、最初の計算問題の数式を前に面食らった。

 得意だったはずの計算が、この日に限って、どれもひどく難しい。小数やら分数やらが複雑に絡み合って見える。必死で動揺を押さえながら解いてはみたものの、予想以上に時間がかかる。解き終えても答えに自信が持てない。

 念のため、検算してみると、なんと4問とも最初の解答と違っているではないか。「気づいてよかったとほっとするより、気が動転して頭の中は大混乱」。すっかり冷静さを失い、結局最後の応用問題では問題文が頭に入らず、意味さえ理解できぬまま、試験終了を告げるベルが非情に鳴り響いた。

 当然不合格。例の計算問題はすべて不正解だった。ちなみに、英語は受験生900人中、2番。数学の失敗が足を引っ張ったのは明らかである。

 「数学にはとても体力を要します。体力イコール精神力。最後にものを言うのは、とことんこだわるねばり強さ。決して天才のインスピレーションではありません」

 数学が必要とする能力を語る言葉の奥に、半世紀前の苦い経験が生きている。

 =敬称略

(文 中島幸恵)


 ■出産直後の妻に「女産めよ」

 「生涯の伴侶(はんりょ)として君を選んだことも失敗のひとつだね」

 「あら、いまの言葉そのままあなたにお返しします」

 妻、美子との軽妙洒脱(しゃだつ)な会話は、夫婦(めおと)漫才のようだ。

 ふたりが出会ったのは30年ほど前。当時、藤原はお茶の水女子大理学部助教授、美子は同じ大学の大学院生で心理学を専攻していた。学内での接点はなかった。

 美子いわく、ある日の大学の帰り道、連れの友人が突然、振り向いて言った。「あっ、藤原先生だ」。長髪にジーパン姿の薄汚い男を見て、「この人が一風変わったと評判の数学者かと。びっくりしました」。第一印象は必ずしも良くなかったようだ。

 正反対に、藤原いわく「ひと目ぼれでした」。当時、恋い焦がれていた歌手、奈良光枝に似た美貌(びぼう)、にじみ出る品の良さ。「結婚したい女性ができた」。翌日、両親に宣言したほどだ。

 1年後に結婚。まもなく長男が生まれ、幸せは欲をさらに膨らませた。

 二人目は女の子。そう決め込んだ。目に入れても痛くないほどのかわいさも想像できる。娘の名前は「あや」。一男一女家族4人であれもしたいこれもしたい…。

 待ちに待った出産当日。いまのように誕生前に性別は分からない。待ちきれず出産に立ち会った。やがて元気な産声が響き渡った。「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」

 「一瞬、頭が真っ白になって…。分娩(ぶんべん)台で出産を終えたばかりの妻に『おい、3人目は女の子を産めよ』と声を荒らげてしまって」

 思いやりのかけらもない。助産師らがあぜんとする中で、なんと藤原自身が倒れてしまった。

 「あまりの落胆で貧血を起こしてしまって」分娩予備室で、産後の美子とともにベッドに横たわるはめに。悲しいやら情けないやら…。

 「女房からは『ひどい人』と今でもいわれます」。そうでしょう。「でもショックでね」などと言い訳しつつ「結局、3人目も男だったから4人目に向かうのが筋だったのでしょうね」とも。反省の色がまったく感じられない夫は、妻を苦笑させるのだった。=敬称略(中島幸恵)


妻、美子さんと

 ■父の誘い断り続け

 小中高を通して最も苦手としていたのが国語だったという。「母国語こそが文化の中核」と、常々主張するのを聞くと、意外な気がするが…。

 「特に『問題文の中で筆者は何を言いたいのか』を答えるのが納得できなかった。ぼくは自分の感性を信じて生きているから、他人がどう思おうと関係ない。いつも“正答”からはほど遠かった」

 そんな息子の言い分を父で作家の新田次郎は尊重し、「ほめて才能を伸ばしてくれた」という。著書『若き数学者のアメリカ』の原稿もまず父に薫陶を受け、あれよあれよという間に出版の運びとなり、30年を経たいまでも名著として読み継がれている。

 中央気象台(現気象庁)に入庁し、富士山観測所の勤務経験もある新田は、執筆の合間を縫ってよく息子を登山に誘ったという。だが一度も応じることなく、新田は昭和55年、67歳で急逝した。

 「電車に父と並んで座って『新田次郎さんとその息子さんでしょ。そっくりね』なんて言われるのを想像して、どうしても気が進まなくてね。極力断っていた。ものすごく悔やまれます」

 父の死後、妻の美子にすすめられて登山を始めた。毎年夏、新田の故郷である信州に出かけ、家族で山に登るのが藤原家の恒例行事になっている。

 「途中、車窓から甲斐駒ケ岳の雄姿が見えると、『あの峰のあたりで、こんなドラマがあったんだよ』なんて熱っぽく語る父の声が聞こえてきそうでね。煙たがらずに、もっといろいろ聞いておくべきだった」

 長年温めてきた思いがある。父の未完の遺作『孤愁-サウダーデ』を書き継ぎ完成させること。「命を削って全身全霊を傾けた小説。さぞ無念だったろうと。必ず恨みを晴らしたい」。取材現場を歩き、新たな資料収集につとめ、完成を目指している。

 父が亡くなったときの年齢に近づくにつれ、少し心境に変化が現れた。「敵討ちみたいな気持ちが薄れて、父の名を汚すことなく満を持して世に出したい、と」。

 風貌も性格も父にそっくり…。そう言われることが、いつしか自身の勲章となり、胸の内で輝いている。=敬称略(文 中島幸恵)


轉載自:http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071211/acd0712110335002-n1.htm

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